知らなかった…
近くにて、お寺参りをしたく…
ネット検索をかけたらこのような寺があった、ご紹介しよう。
三ノ輪にある浄閑寺で、投げ込み寺として有名であるとのこと、近くで生まれ育ったとの方から詳しく丁寧に教えて下さる文があったので
以下はそこからの引用した。
「浄閑寺について。
芝増上寺の末寺で、阿弥陀如来座像と観音、勢至菩薩を本尊とする。初めは今の港区三田に創建されたが、江戸時代の初期に現在地に移転してきたそうである。江戸の郊外ということで今の中央区人形町にあった吉原の遊郭が浅草田んぼに移転させられてきて、新吉原と呼ばれ、華やかな世界の裏側で身寄りや引き取り手のない遊女の亡骸を受け入れて埋葬したので投げ込み寺の異名があるとのこと。
まず浄閑寺の門前に立ってみよう。
昔の浄閑寺の門前のすぐ脇には音無川が流れていた。今では暗渠になってしまって分かりづらいが、石神井川から王子で分流し、昔は旧岩槻街道に、現在はJR京浜東北線に沿って南下し、浄閑寺の所まで流れてきて、さらに進んで山谷堀になって隅田川に注いでいたとのこと。
この川が蛇行しながら台東区と荒川区の区境になっており、都電の三ノ輪橋駅の駅名の由来となった三ノ輪橋が架かっていて、幕末に水戸で蟄居することになった徳川慶喜を見送った山岡鉄舟とがここで別れを惜しんだそうである。浄閑寺より下流の部分では浅草を洪水から守るために、徳川家が諸大名を動員して築いた日本堤があり、現在でも台東区日本堤という名前で残っているとのこと。
浄閑寺門前で音無川から分かれるのが思川。これも道路や住宅になってしまってまったくわかりづらい。門前から明治通り沿いに隅田川まで流れて痛そうであるが、この川に架かっていたのが泪橋。小塚原の刑場にひかれていく罪人と家族が今生の別れに涙を流した場所だということで、けっして丹下段平とジョーが涙した場所というわけではないとのこと。
川の向こう側であるから台東区側になってしまうけどアラーキーこと、写真家の荒木 経惟さんの実家があったそうである。江戸五色不動の一つ目黄不動永久寺もあるとのこと。
お寺の入り口に小さなお地蔵さんがある。これは小夜衣供養地蔵と呼ばれる、吉原の遊女小夜衣の墓である。 吉原京町一丁目に四つ目屋善蔵の四つ目屋は不始末で小火を出した時に、意地の悪い女主人は遊女の小夜衣の方かだと言い張ったので、小夜衣は無実であるが火あぶりに処せられてしまった。その後、小夜衣の一周忌、三周忌、七周忌の度に廊内からは火が出て、その度に四つ目屋は全焼し、ついに潰れてしまった。廊内の人々は小夜衣の怨霊に違いないと、霊を鎮める仏事を行ってから年忌ごとの火事は無くなったという。地蔵は小夜衣を慰めるために建てられたものだと推測され、南千住の日慶寺にも天保6年に作られた小夜衣塚がある。時を越え、小夜衣さんをしのんで手を合わせたくなるとのこと。
浄閑寺境内には豕塚がある。猪の絵が彫ってある碑だが、天保年間に災厄除けに白い猪を吉原大門の側で飼ったものが死んだ後に葬ったもので、火伏の塚であると伝承された。この塚のおかげか、安政の大地震や関東大震災、東京大空襲の猛火からも浄閑寺は免れているとされてるのだから、スゴイとのこと。」
へえ~、そうだったのか、知識の引き出しに重ねてしまっておきたい話である。
ここで、
引用文に大変恐縮であるが少しだけ…付け加えるとしたら、その小夜衣さんらの平均年齢が21~22歳であったとのことには、まことにせつない想いが起き上がり涙が混み上がってくる。
実際にお参りに出掛けてみると、供え物には若い女のアクセサリー、化粧品、香りもの、歳に相応しいぬいぐるみなどがあって…お参り客は絶えないとの寺の関係者の話を聞いた。
浄閑寺の縁起は勿論だが…
この話の風呂敷を広げて下さった方、教えてくれてありがとう。
やはり、歴史は奥ゆかしく知れば知るほど心の底が充満する。
今日は、この話を吟味しながら秋の酒を愉しみたいと思う…